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さようなら梯郁太郎さん

投稿日:2017年4月3日 更新日:

ローランド創業者の梯郁太郎氏が4月1日早朝に亡くなられた。

TR-808、JUPITER-8、DTM、MIDIを生んだ梯郁太郎氏が死去(IT media NEWS)

梯郁太郎氏(Photo by Heise Newsticker)

私は退職してから15年経っていて、梯さんとの思い出も数えるほどしか無く、多くの諸先輩方は何日でも話せるほどいろいろな思い出があるだろうから、自分の拙い想いを残すべきかどうか迷った。しかし、やはり自分の人生を変えた人であるので、そのきっかけとなったエピソードだけは書き置いておこうと思う。追悼の意を込めて。

1987年の確か9月ごろだったか。前年に父を突然亡くしてたので長野に帰ろうと思い、その頃日立系の会社でプログラマーとして働いていた私は、技術系の求人情報誌「ベルーフ」を見ていた。そこにローランドの中途採用広告が掲載されていた。憧れの会社だったことから、長野に帰ることはすっかり忘れて応募したら、一次試験の知らせが届いた。

喜び勇んで浜松に向かい、迎えの車で他の受験者とともに細江工場に向かった。どんどん田舎っぽく寂れていき、なんとなく心細さを感じた。30分ほど走ったら急に目の前が開けて、そこに現れたのが細江工場だった。

当時、世界的に大ヒットしていたヤマハのDX-7に対抗すべく、ローランドは社運をかけてフラッグシップのシンセサイザー「D-50」を開発。見事にヒットして、世界中のミュージシャンを熱狂させていた。

歴史に残るローランドの代表的なシンセ D-50 (Photo by KVR)

工場に到着してから試験を行うことになった。電子工学、機械工学、電気工学の中から選ぶように言われたのだけれど、どれも専門でなかったため、「電子工学だったら少しは分かるかな?」と思って選んだところ、大げさではなく1問もわからなかった。中途半端に書くのもバカをさらけ出しているように思えたので、屈辱の白紙で提出した。当然、0点。

その後、軽く工場見学を行い、一次面接となった。目の前には梯郁太郎社長(当時)。初めて「世界のローランド」創業者を前にして緊張した。彼は「試験は難しかったようですね。当社を受けた理由を聞かせてください」と渋みのある優しい声で聞いてきた。

どうせテストは0点で落ちるに決まっている私は、最後にこれだけは伝えたいと思い、「キーボードマガジンを開いたときにある見開き2ページのD-50の広告で、『世界よ、この音がローランドだ!』とあったのですが、それに鳥肌が立ち、ぜひこの会社で働きたいと思いました」と答えた。なかばやけっぱちだったけど、言いたいことを言ってスッキリして帰ったら、数日後に一次試験合格と二次面接の知らせが届いた。

「なんで0点の俺が合格なんだ?」と、何かの間違いではないかと思いながら二次面接に向かったところ、また目の前に梯さんがいた。

梯さんは「来ていただくことになったら、いつぐらいから来れますか?」と聞いてきたので、「今ちょうど抱えているプロジェクトがあるので、3ヶ月ぐらいかかると思います」と答えたところ、意外な言葉が返ってきた。

「良いですよ。これから長い付き合いになりますから」

これには震えてしまった。帰りの新幹線の中で涙が流れてきた。入社してからしばらくして、所属先の部長に「なんで僕が受かったんですか?」と聞いたところ、「実はね、試験結果は合否には関係なかったんだよ。条件は一つだけ。『一緒に働きたいかそうでないか』だけだったんだ」と言われた。

二次面接後に入社が決まり、「シンセサイザーの開発」をしたいと申し出た私は、まさにシンセ開発部のP-10に配属されることとなった。0点で当然使い物にならなかった私は、「これからはハードからソフトの時代になるから、高橋さんはプログラムの勉強をした方が良いよ」と上司から言われ、C言語やアセンブラの勉強をしていた。そんなある日、当時の上司のY氏(D-50 開発者)から「今度社内標準の音源開発を行うんだけど、やってみない?」と誘われ、断る理由のなかった私は二つ返事で受けた。それから研究所に配属が変わり、標準音源の開発チームに加わった。それが後のGS音源となり、SC-55からスタートして数々のローランド製品に搭載された。Y氏や直属の上司H氏始め、チームのみなさんにはたくさん迷惑かけたけど、社内標準だと聞いていたものが、世界標準の General MIDI になるということでワクワクしていた。

その後、P-10に戻ってシンセサイザー開発に携わり、それと並行して音源モジュール、電子ピアノ、ドラムマシンなどのGS音源搭載製品のサポートをしていたが、松本に異動してからデジタルサンプラーの開発に携わるようになり、MS-1、SP-808といった製品のプロデュースを行った。

SP-808EX

この間、製品開発会議では梯さんの暖かくも鋭い指摘に毎回ビクビクしていた。開発会議でやり直しになると製品開発のスケジュールが狂ってしまう。マイナスの評価を受けても、金型の作り直しやスケジュールの見直しにならないよう、みんな必死で準備して臨んでいた。

会議のときに梯さんからかけられた言葉やアドバイス。忘れてしまったものもあれば、強烈に残っているものもある。浜名湖の研修センターで行われた一泊二日の合宿では、梯さん本人から講義があったし、細江工場の朝礼でもたくさん語ってもらった。多くの製品の開発秘話には必ず梯さんが登場する。シンセサイザーは当然のこと、DTM(Desk Top Music)という言葉を広めたり、ギター・シンセサイザーの演奏形態にこだわった話や、電子オルガンにかけた情熱など、梯さんと人生をともに歩んできたエンジニアたちは、思い出話が尽きないことだろう。

梯さんは、存在そのものが伝説のような人で、その波乱万丈の人生はウィキペディアにもあるし、書籍『ライフワークは音楽 電子楽器の開発にかけた夢』(後に増補改訂版が発売)には自伝として記されている。

世界中のミュージシャンや音楽関係者、楽器関係者から尊敬され、『The Inovator』と呼ばれた梯郁太郎さん。2013年には新たな会社ATVを興し、代表取締役会長に就任する。このあたりは、部外者の私では中途半端にしかわからないし、その状態でいろいろ述べるべきではないと思うが、伝え聞く話ではいろいろな葛藤があったようだ。

ご本人が満足して天国に行かれたかどうかはわからない。しかし、最後まで溢れる情熱を持って音楽と向き合っていたのは確かだし、世界中のミュージシャンに影響を与え、音楽の歴史を作ったことに対して、本当に多くの人たちが彼の死を悼んでいるはずだ。

30年ほど前の梯さんの表情を鮮明に覚えているということは、やはり自分の人生の中で非常に大きかったんだと思う。今は、音楽業界とは異なる仕事に就いてしまったけれど、ローランドで経験したことは今も役に立っているし、梯郁太郎の想いは、これからも自分の中に生き続けていくはずだ。

梯さん、ありがとうございました。

安らかにお眠りください。

 

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